warmth.
神殿で祝福されるべくやってきた幼い王。
彼はミュケーネを治める王アガメムノンの子だが、父である王は暗殺された。
正統な血を引く彼はまだ幼い為に、国を逃れて来たという。
大人たちは、彼を見るなり恭しく頭を垂れた。
両親を亡くし司祭の養子として育った少年も、周囲にならってすぐに跪く。
――その時はまだ、小さな彼が自分の生涯の主人になるとは思わずにいた。
『仕えるべき者を、よく見極めなさい』
手を握って、目を見て笑った母。
『万人を味方になど不可能なこと…けれどたったひとり、全てを委ねる相手を見つけなさい』
姿は華奢な女性だった筈だが、最後に抱き締めてくれたのは力強く温かな両の腕。
あの時の自分は、母に愛していると言えただろうか。
ただ立ち尽くしていただけのように思う。
『あなたが尽くすべき方が見つかるよう、母はいつも見守ります』
時折、明け方の夢に見る。
今はもう薄れた、しかし生涯忘れることのない光景。
収穫の終わったオリーブの木が、風に吹かれて揺れている。
昼寝をするから良い場所を教えろと言われたので、丘までやってきていた。
今まで自分ひとりでしか来なかったこの場所に、少年を案内して。
「…オレスト様」
「オレストでいいと言ってるだろう、おれもお前をピラドと呼ぶんだから」
草の匂いを吸い込んで斜面に寝転ぶ姿は、歳相応に子供でしかないが、彼らの関係は無邪気な子供同士という訳にはいかない。
「では…オレスト」
「うん」
「…今朝方、母を夢に見ました」
ピラドは歳が近いからと傍に置かれた、オレストの世話係。
オレストは父が暗殺された為に亡命してきた。
身分を隠していても周囲は小さな彼に気を遣い、また無用の詮索や下心を持つ者も多い。
そんな中で5つ歳上の青年に、まだ11歳になったばかりのオレストが懐くには、そう時間はかからなかった。
オレスト自身、自分の国や親兄弟については理解が浅く、まだ父と母の間に起こった悲劇も知らされてはいない。ピラドも今まで生い立ちについて多くは語らなかったので、オレストは少し驚いていた。
「母が…私の母は、私が仕えるべき主人が得られるように見守ってくれると言っていました」
オレストはぼんやりと空を仰いで、黙ってピラドの言葉に耳を傾ける。
ピラドは草の上に座り直し、ここまで引いてきたオレストの手を握ったまま俯く。
「この地で過ごして三年、こんなにも迷いの無い気持ちは初めてだ」
オレストを見下ろして微笑み、また揺れるオリーブの葉の緑に目を細める。
十年続いていたギリシャとトロイの戦。
その戦いにギリシャの軍勢として加わっていたある小国の王は、トロイに通じていた。
トロイが滅ぼされた今となっては、その小国との繋がりが戦況に及ぼした度合いは既に知る由もないが、裏切りが発覚し報復を恐れた王は、罪を腹心に着せた。
「…裏切りの罪で首を刎ねられたのは、私の父です」
小さな声だったが、静かな午後の丘の上ですぐ傍の少年に聞かせるには充分だった。
オレストはピラドを見上げたが表情は伺えなかったので、東から流れてきた雲に視線をやる。
「母は私に教えました…主である王に申し出るようにと、今の殿下と…あなたと同じほどの歳の私に何度も言い聞かせるのです」
『父と共に母も敵に通じています、自分は主君への忠誠と良心をもってそれをご報告にあがりました』
せめて息子を生き延びさせようと、母親は自らの命と引き換えの策を講じた。
巧妙に被せられた罪を晴らす事は叶わず、処刑される夫と共に逝く道を選びつつも、この地を訪れていた他国の僧侶に望みを託して。
「…母親に教えられた通りに、言い慣れぬ言葉を必死で口しました」
――裏切り者の子供。
――その上、母親をも売り渡した子供。
処刑に立ち会わされた旅の僧侶は、王にある神託を告げる。
――裏切りを告発する善と、両親を死へと追いやる悪とを併せ持った子供がいる。
彼は国において歓迎される子供ではないだろうが、まだ幼い彼をも断罪することが国を治める者に良い事にはならない。異国の僧である自分がこの地にあったのは、その子供を王から遠ざけるためだ。
王は僧侶の言葉を聞き入れた。
愚かな王が起こした悲劇…己の保身に手一杯の愚か者であるが故に、持て余した子供を僧に引き渡すのが良いと判断する。
「…僧侶は引き取った子供に、教養と自由を与えてくれました」
彼の生い立ちを知る者は少ない。
理由があって司祭に育てられたその子供は聡明で、慈しむことを知る青年になった。
「私は、両親の死を無駄にしたくありません」
その為に何が最善の選択であるか、ずっと決め兼ねていた。
真に不誠実者のかつての主を、今は憎む気持ちもない。
今不安に思うのは、自分や両親の過去が自分が将来仕えるべき主にとって、周囲の信頼を揺るがすものでしかないという事。
淡々と話すピラドの声を、オレストはじっと聞いていた。
この半年、見知らぬ者ばかりのこの土地で、たったひとつ信頼できる存在だったピラドの声を。
そして何故彼に一番心を許せたかを、うっすらと理解し始める。
「ピラド」
「はい」
いずれは国に戻る。
しかしそれは自分を国から追いやった『何者か』と戦わなければいけない時。
力を持たない自分をもどかしく思いながら、今はじっと身分を隠して暮らす。
「…おれは、何も持っていない」
一体己の身に、どんな危険があるのか。
それすらも明確には分からなかった。
母や姉が国でどうしているか、生死も聞かされない。
「何もいりません…私は何も、望みません」
穏やかに。
けれど強い言葉で。
「今のまま、あなたのお傍に…いつまでとも申しません、あなたの気が向く限り」
一生仕える覚悟がある。
しかしそれは自分の決めることではないと思った。
小さな王が背負うもの。
何も知らされてはいないが、大きな闇を感じる。
その闇の中に立つ彼の背中を、支えたいと思った。
「…なぜだ?」
問われてややはにかんだピラドは、それでも真剣に。
「母が、笑っていました」
「夢の中の、母上か?」
「はい、今にして思えば…あなたがここへやってきた半年前もそう」
そう言ったピラドは、午後の陽射しのようにあたたかく微笑んでいて。
オレストは目を閉じて、自分よりも少し大きな手を握る。
「ピラド」
「はい」
「手を、離さないでくれ」
「はい」
「おれが、起きるまで…」
承諾する返事の代わりに。
そっと握り返した。
それは、まだ小さな手のひらだった頃。
多くの武勲を持つ王の息子。
彼に近い存在になろうと、訪ねてやってくる遠い血筋や他人。
出会ったばかりの頃の彼は、周囲に翻弄されまいと必死で顔を上げていただけで。
その彼の横顔を痛々しくも眩しく思ったのは、もう三年も前の事。
「ピラドは私の大事な友人だ、彼を侮辱するのは私を侮辱するものと思っていただきたい」
儀礼的な挨拶が繰り返される中、声を潜めたどこかの地方領主に対して彼は静かに、しかし怒りの色を持った声音でそう返した。
そのあからさまな拒絶を、彼の臣下は溜息をつき、たしなめる言葉を探す。
控えの部屋からでも聞こえた彼の声に、涙が溢れた。
今はもう、お互いの過去と現在を知っていて。
王となる彼の背負う闇。
一番近くで見守りたいと願う自分。
できることならば、彼の進む道に並んで立ちたい。
――たったひとり、全てを委ねる相手。
受け入れて。
認めて。
手を伸ばしてくれる。
「ピラド!」
「…はい、殿下」
オレストは礼節上身につけていた衣装をピラドの手に押し付けて、西日の射す窓の外に視線を向ける。
「今日はもう終わりだ、最後にくだらん話まで聞かされたがな」
「…殿下、それでもお立場はお守りください」
「充分守ったつもりだ!…昼寝する、付き合ってくれ」
オリーブ畑を小走りに進み、丘の上へ。
およそ身分ある青年には見えないはしゃぎ様で。
「ここからの景色も…あと何度見られるか」
「…殿下」
「ピラド!」
「オレスト…発つのですか?」
「母方の伯父のところへ…とりあえずは、な」
複雑な表情で、オレストは木の根元に転がった。
ピラドは強めに吹いた風に乱された髪をかきあげて、足元の草をじっと見る。
彼の運命が動き始めるのだろう。
自分は、どこまで連れて行ってもらえるだろう。
もう子供ではなくなった彼に、自分は必要ないとも思える。
「お前が教えてくれたこの木の下も、これで最後かもしれない」
「…そうですね」
「俺は今、あの雲のようなものだから」
言われて、オレストの視線を追った。
青い空に、いくつものちぎれた雲。
「お前も名残惜しいなら、しっかり見ておけ、この景色」
「……私も、一緒に?」
オレストは閉じかけていた目を開く。
「嫌か?」
「…そんな、とんでもない…っ」
首を振ったピラドに、オレストは幼さの残る笑顔を向ける。
それから、起き上がって真っ直ぐにピラドを見つめた。
「俺はまだ、何も持っていない…けれどお前が必要だ」
「私…私は、何もいりません」
「初めてここへ来た日の言葉に、今でも縋って良いだろうか」
「あなたのお傍に…という私の言葉ですか?」
まるで昨日のことのように覚えていた。
毎日思い起こしていた訳ではないが…今はあの日の風の音さえ、鮮明に浮かぶ。
「あの時は、いつまでとはお約束しませんでしたね」
「ああ、だから今でもお前を俺の傍に縛り付けている」
ピラドはオレストの手をとった。
「では、もし叶うならば…今度は一生をオレストの傍に捧げさせて下さい」
「…ピラド」
――裏切り者の子供。
事実ではないと誓えるが、真偽はどうあれそれは自分が背負う呼び名。
時に責められるのは、これからも避けられないだろう。
「あなたが私を友と呼ぶこと、私にとってこれ以上の褒章はありません」
――たったひとり、全てを委ねる相手。
もうすぐ、オリーブの収穫が終わる。
今は力強くなった彼の手を、また握り返して。
ふたりの青年の笑い声をさらうように、強い風が吹いた午後。
ピラドとオレストは、多くの舞台やオペラに登場しますし
大概どんな場合でも、ピラドのオレストへの尽くしっぷりは半端じゃないです。
若い男性同士の同性愛が推奨されてた古代ギリシャの話では、彼らの間柄は非常に好ましいものらしいです。
友人同士とか従兄弟とか、彼らの繋がりの描かれ方は様々なんですが…外せないのが、主従関係。
しかし四季で上演される『アンドロマック』はラシーヌのもので、彼らの関係はストイックに『友情』止まり。
それがまたいい…!!
アンドロマック、再演切望。
近々やらないかなぁ…前回が2003年なので、そろそろ…ねえ?
期待し過ぎずに楽しみにします。
【ひよこ】
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