マタタビなげこみたくなる衝動

ゴンゾ


気ままなひとり旅。
生まれ故郷の壇沢には、寂しい想いがあるばかりで。

鐘の音に乗って山を越え、川をくだり、野山を巡る。
通りかかった里山から迷子を家まで送ることもあれば、飢饉で子供を亡くした夫婦の寝間に現れることも。

多くの出会いがある分、多くの別れも。
出会っては、別れる。
別れることで、次の出会いがやってくる。

それは真理、人間も座敷わらしも同じ。
わかってはいても、いつも少し哀しい。


「…おおい、ダンジャ!おめえダンジャでないかい?」

ずっとひとり旅。
こっそり人に話しかけることはあっても、自分を呼ぶ声などないはずだった。
よく晴れた昼下がり、人里を出て小川の脇を下流に向かって歩いていた時のこと。

「おっどろいたな、ペドロでねえか」
「おう、覚えでてくれたか」

川原に寝そべったまま人懐っこい笑顔で見上げてきたのは、以前に立ち寄った村にいた座敷わらし。
菜の花の咲く土手を下りて行くと、川の中にもうひとりいた。

「…連れがいるのか?」
「拾ったのよ、村さ連れて帰るとこなんだが…腹が減ったと暴れてな、岩魚とるって聞かねえのよ」
「腹が減る?そいつは生きてるもんの特権だ」

人間の住む世界ではなく、仏となって逝く先でもなく…自分達が存在する世界においても形式上の『食事』があるが。
草木も動物も、自分たちの為に犠牲にすることはできない筈だ。
命あるものが、己の命のためにだけ許されること。

「あいつはしばらく生きてたんだ、だけんども生き続けられねがった」

ペドロが川の中の彼を見て言うので、ダンジャもその先を見た。
ざんばら髪のわらしが、膝まで水に浸かって夢中で魚を追っている。

「まあ、とって食える訳でねし、殺生するつもりもねえのよ」

気がすむまでああさせてやるしかねえ、そう言って笑うペドロの傍に腰を下ろした。
ダンジャも静かに川面を眺める。

いくつも見てきた村、ただ過ぎていく長い時間。
生まれて間もなく消える命。
名前もないまま漂う魂。

「あいつには親がつけた名前もあってな、ちゃあんと育ててやる気はあったんだろうけども…去年までの大飢饉だ」


貧しい農村を訪れたときのこと。

天候に恵まれず、厳しい農作業に見合うだけの実りも無く、生まれて半年の子供に与える乳も出ない。
母親は毎日、芋を潰して溶いた湯を子供に与えながら泥にまみれる。

「母ちゃんが畑さ出て仕事するべ、そん時木陰に寝がしてる赤ん坊がな、おれをじいっと見でるのよ」

生まれたばかりのその子供には、生きたくても生きられなかった彼が見えていた。

「おれは何にもできねえんだども、その子の顔さ撫でてやったらな、おれの指を持って吸うんだ…腹へってるんだべなあ」

空腹を感じる間もなくこの世を去ることだけが、苦しみではないと改めて思う。
自分達には分からない、切ない気持ち。
しかし同時に、想像することしかできない哀しさもあるのだ。
ダンジャがペドロの話しに耳を傾けていると、近くにある菜の花の茎を赤いてんとう虫がのぼっていた。

小さいけれど、眩しいほどの命。

「そんな赤ん坊がかわいぐてなあ…俺ぁそいつのとこに留まってしまったんだ」

そうして夏が終わり、短い秋が過ぎ、長い冬に入る頃。
子供の運命は、とうに見えていた。

それでも、自分を見つけてくれた赤ん坊から離れられずに、どうにか生き延びるようにと祈る。
その子の父も母も、同じ想いであって欲しいと、どうか消さないで欲しいと願う。

しかし蓄えも少なく、日に日に弱っていく赤ん坊。
厚い雲に覆われた空から雪がちらつきだしたある朝。

「…母ちゃんの腕の中で、ついに口も開けられねぐなってしまった」

ペドロの言葉が詰まる。
聞いているダンジャも、膝を抱える腕に力を込めた。

父と母が、懸命に赤ん坊の名前を呼ぶ。
思わずそっと近付いて、春の終わりから見守り続けた小さな命を覗き込む。

「そしたらあいつがふと目を開けてな、おれの顔見つけて笑ったのよ」

子供はずっと傍に居たペドロに向かって微笑んで、それから寝入るように目を閉じた。
見ていられたのはそこまでで、親子に深々と頭を下げて家を出る。
すぐにその村を出ようと歩き出した。

せめてなくした子供の為に、降りだした雪のようにたくさんの涙を流してやって欲しいと思う。
そしてどうか来年は、この親たちの流した涙と同じだけ恵みの雨が降るように。


「最後にと思ってその家さ振り返ったら、あいつが立ってたんだ」


死ぬ間際の小さく細い身体とは正反対のたくましい腕、日に焼けた肌。
人として生きていくことはできなかった。
けれど本当ならば、こんな姿になるはずだったのだ。

「思わず呼んでしまったんだ、権三ってな…あいつの名前よ」

追いかけてきた彼は、大きな声で笑ってペドロの名を呼び返す。
わずかな間とはいえ生きていた頃の名前も大切にしてやりたい、しかしつらい想いを背負わせたくない。
実際に彼は人間の子供として生きていた時の、最も強い『想い』だけを抱えて座敷わらしになってしまった。

「なのでまあゴンゾて呼んでるけどな…あいつは生ぎてた頃を覚えてねえ、だども今でも腹を減らしたまんまだ」

春の風に菜の花が揺れて、てっぺんまでのぼりきったてんとう虫が飛び去るのをふたりの目が追う。
青い空に吸い込まれていった小さな虫も、確かな命。

「ペドロ、ええことしたな」
「どうだべなぁ…あんなに大事にしてくれた親元から、連れて来ちまって良かったかどうかもわからねしな」

川岸に腰掛けて小石を投げていた彼が、初めてこちらを振り返った。
ペドロの隣にダンジャを見つけて、驚いた顔で立ち上がる。
その気配のせいか、近くにいた山鳩が二羽飛び去った。

「おれが思うに権三とやらの『ごん』は権化の『ごん』だ、権化というのは菩薩さんが人間のとこさ姿見せるときのことだ」
「ははあ…あいかわらずおめは、難しいことさ言うなあ」

心底感心して言うペドロに、ダンジャが言葉を続けた。

「その父ちゃんと母ちゃんは赤ん坊が最期に笑っだの見て救われてるはずだ、菩薩さんがおりてきて、天にかえっていったと思えるかもしれねえ」

ほんの僅かな間でも、彼が生きていたことにも役割があったのだ。
たまたまやってきた座敷わらしが、消えていく命を微笑ませたことにも意味があったのだ。

「おれたちがあの世でもこの世でもねえ世界にいることにだって意味がある、そう信じて旅をしてたが…」

「おう兄貴ぃ!誰だこいつは?」

ダンジャの言葉をさえぎって、大きな声が響く。
つかつかとやってきて、見知らぬわらしの周りを歩き回りながら様子を伺う。

「おれの古くからの仲間でな、旅してまわってて…何かと世の中に詳しいのよ」
「おめさんのことはペドロから聞いた、おれはダンジャ、壇沢の生まれで今は流れ者といったとこだ」

立ち上がって凛とした通る声で挨拶すると、端正な顔を上げて微笑む。
ゴンゾは自分ともペドロとも違う座敷わらしに会うのは初めてだったが、じっとダンジャの顔を見てから笑った。
「なかなか男前でねえか、おれはゴンゾだ!生まれた場所のこたあ知らねえが、兄貴から聞いたなら言わんでええべな」

今度はダンジャがゴンゾを上から下までじっと見る…そしてまた上まで視線を上げていくと、長めに伸びてくしゃくしゃの髪が風になびいていた。
力強い腕を組んで仁王立ちのままのゴンゾに、ダンジャも腕組みして向かい合う。

「おれは、座敷わらしの存在意義について考えながら旅していたんだ」
「…そん…?…なんだぁ?!」

顔をしかめたゴンゾがペドロを見るが、ダンジャの一歩後ろで苦笑しながら首を横に振っていた。
ダンジャはふたりの反応には構わず続ける。

「人間はもちろん、草木も虫も動物もみんな生ぎてる、死ねばあの世へ行く…生きてるもんには役割があって、場合によっては死ぬことにも役割がある、例えば魚が虫を食ってその魚を鳥が食うことだ」

前半はともかく、最後の方の食ったり食われたりする部分については理解できたので、ふたりは小さく何度も頷いた。
ダンジャは尚も続ける。

「ではおれたち座敷わらしの役割はなんだべ?そいつを探すのがおれの旅だったのよ」

親に捨てられ。
命を捨てられ。

誰も恨めない。
恨みたくはない。

できることなら、愛したい。
愛されたかったから。

一度目を閉じて、考えを巡らせる。
押し黙ってしまったダンジャをふたりが覗き込もうとしたとき、彼は顔を上げた。

「完全ではないが、おめさんらのおかげでこの疑問への新しい展開がみえた」
「なに?!…なにが見えだって?」

ペドロはなんとなくダンジャの言わんとすることが分かったが、ゴンゾは頭をかきむしっていた。
それと対照的に、今日の穏やかな空のように晴れやかな顔でダンジャがペドロを振り返る。

「ペドロ、おれもおめえたちと一緒に行ってええが?」

ペドロは一瞬目を見開いて、それからいつもの穏やかな顔になる。

「そりゃおめえ、おれたちとしちゃ大歓迎だけんども…旅はもうええのか?」

座敷わらしとしての、役割。
ずっと探していた、きっとこれからも探すのだ。

「今は座敷わらしの存在意義を、命あるものと関わることだと思う、他にもあるかも知れねえが今はこれでいい」


時間は無限にある。
どこへも行けない代わりに、どこへでも行ける。

「いうなれば、おれたちはどこで何をしていても、旅の途中なのよ」

自分ひとりでの旅は終わり。
これからは、仲間との旅が始まる。
彼らと一緒ならば、もし道に迷っても寂しい思いはしないだろう。

「よぐわがんねえけども、おめも来るならペドロ兄貴のこと兄貴て呼べよ」

ゴンゾが言うと、ペドロが困った顔をした。
ダンジャは急な提案にただ驚く。

「ゴンゾ、べつに呼び方なんてどうでも…おめだっておれを当たり前にペドロて呼んだらええ」

三人が三様にものを言おうとしていたとき、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
ゴンゾは慌てて、放り出していた自分の荷物を拾い上げる。


「おれもお前も兄貴を慕ってついて行ぐんだから、兄貴て呼ぶのが筋だ、それに…」
「それに?」
「その方がこう、かっこがつくべな!…兄貴、乗らねのが?」


急ぐ旅でもないので大半を歩いて移動しているのだが、ゴンゾは鐘の音を聞いてじっとしていられないようだった。
ペドロは困った顔のまま、しかし嬉しそうに荷物を背負う。
ダンジャは小さく吹き出し、ゴンゾに笑いながら頷いてペドロを振り返る。

「旅は道連れ…よろしくな、ペドロ兄貴!」
「おめえまでそう言うのか?」


鐘の音に乗って山を越え、川をくだり、野山を巡る。今度は仲間たちと。

どこへでも、どこまでも。



【ひよこ】
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