マタタビなげこみたくなる衝動

ヒノデロ


色とりどりの着物。
べにの紅、おしろいの匂い。
夜更けにも消えることのない街道の灯り。


姿を見せれば店に迷惑になるからと、じっと静かに暮らしていた。
時に故郷を忘れられずに泣く若い娘の傍に寄り添ってやることで、自分を置いていなくなった母を想う。

しかし時代は変わり人が減り、もう幾日かで無くなってしまうと分かっている座敷。
月明かりの下に、見様見真似で覚えた三味線の音。
青白い満月の晩に哀しく響くその音を、ふわりと抱きとめるように聞こえたのは…人のものでない声。

「一緒に来るか?」

手を止めて見上げると、座敷を覗き込む姿は満月を背負うように立っていた。
外には他にもいくつかの気配。

「ここが無ぐなったら、おめはどこさ行く気だ?」

訊ねてくる向こうから、小さな姿もこちらの様子を伺いつつ口を開く。

「ここが無ぐなったら、住むとこなかんべ?」

まず、とても驚いていた。
自分以外に人ならぬ姿で時を過ごす存在に、初めて出会ったからだ。
訪ねて来た彼らに戸惑いながらも、うれしくて微笑む。
抱えていた三味線を後ろへよけて、袂を整えながら畳の上にそっと指を揃えた。

「お兄さん方、日之出楼へようこそおいでなさいまし」

産み落とされ、死んで姿を変えても住み続けてきた遊郭。
大好きな人間の姉様方のように深く頭を下げる。

「あたいはこの日之出楼で、座敷わらしと呼ばれております」

月明かりに揺れる髪は長く、おしろいの匂いが部屋に広がった。

「お見かけしたところお兄さん方も…」
「おれたちも座敷わらしだおん」

窓から入ってきたうちのひとり、一番小さな彼は真似をして畳に膝と手のひらをつくと、ぴょこりと頭を下げた。
その隣に座った細身の彼が頷いて続ける。

「ここは取り壊される日が近い、おめもそのことさ気がついてるべ…何故留まる?」

言われて、白い顔は俯いた。
一番最初に話しかけてきた彼が、みんなを見回してからまた話し出す。

「まあここが無ぐなってしまうのは仕方ねえ、だからおれたちはおめを誘いに来たのよ」
「…あたいを、誘いに?」

驚いて顔を上げると、目の前の三人はうんうんと頷いていた。
もうひとり、歩き回っていた大柄の座敷わらしを見ると、部屋の隅でほこりを被っている化粧道具を珍しそうにいじくっている。

「なあ、ゴンさん?」
「兄貴が良けりゃおれは何でもかまやしねえよっ」

大きな強い声に身を竦めると、細身の彼が言う。

「ゴンゾはおめがおなごのようだから、照れてるんだ」
「ダンジャ、余計なことしゃべるなよ」

大きな彼は大きな声でそう言ったが、今度はもう驚かない。
彼らが、とても仲の良い仲間同士なのだと分かったし、むっとした顔でそっぽを向いてしまった彼の耳は赤くなっていた。
思わず袖で口元を隠して小さく笑う。

「可愛らしい人ね、ゴンゾ兄さん」

ゴンゾは不意に呼ばれて何か言おうとしたが、口をぱくぱくさせただけで壁に向かって座り込んでしまった。
一番小さな彼が、その様子を見てころころと笑う。

「そちらが、ダンジャ兄さん?」

腕組みして座っている細身の座敷わらしが、口の端を上げて目を細める。
すると隣にいた小さい彼が、身を乗り出してきた。

「おれはモンゼ!ペドロ親分がつけてくれたんだおん」

たんぽぽのような彼と一緒に頷くと、自然と笑みがこぼれる。
そして親分と呼ばれた彼の目を見ると、とても穏やかな気持ちになった。
置いていた三味線を取って、弦を緩める。

「…ここは、あたいの母さんが居たところ…すっかり無ぐなってしまうのを見届けようかと迷っていたの」

花街ごと無くなってしまうのは時間の問題で…哀しくて、切なくて。
新しい棲家を探すべきとは思っても、離れられなかった。

「もう、迷う必要なかんべよ」

ペドロがそう言うと、心の中にあったいくつかの予感が繋がった。

「ここが、日之出楼が無ぐなってしまうと分がって…でも不思議な気持ちだったのよ」

生まれて死んだこの場所を離れなかったのは、ここが好きだから。
なくなってしまうと見通してからは、あかりの灯る座敷ではなく、空き部屋から月を見上げる日々。

「あたいは…お兄さん方が来てくれることを、知っていたような気がするわいな」

今まで自分が想いを寄せてきたのは。
おしろいの匂い、べにの紅。
夜毎賑わう街道、行き交う人々。
知ることのなかった、母のぬくもり。

「…知っていて、だからここに居たような気がするわいな」
「そうか、そりゃあ待たせたな」

目の前で笑ったペドロの顔が滲む。
隣のモンゼも、ダンジャも、涙で見えなくなってしまう。

「ごめんなさいね、とても…とても嬉しいのに…っ」

三味線を抱えて俯くと、後ろから小突かれる。

「泣ぐな、男だろうがっ」

いつの間にか傍に来ていたゴンゾは、見ろよと言って仲間を顎で指した。
顔を上げると三人とも笑っていて、その表情はとてもあたたかい。
涙を拭い、再び指をついて深々と頭を下げた。

「ペドロ親分さん、あたいも一緒に連れて行ってくださいな」



この街が、生まれた場所が。
朽ちていくのを見届けようと、覚悟していたけれど。
きれいなままの思い出だけ、抱えて旅に出ることにした。

まあるい月と、四人の仲間。
人形のような姿の、新しい仲間。

「おめえのこと、なんて呼んだらええのかな?」

モンゼが、飛びついてきて言う。
困った顔をした彼に、ペドロが訊いた。

「おめえ、あそこが好きか?」

振り返ると、町の灯。
母の形見の三味線を撫でて、微笑みながら頷く。

「そうだなあ、そしたらまあ日之出楼の…ヒノデロ、でどうだべか?」

あの座敷は、なくなってしまうけど。
人間達も、いずれは忘れてしまうだろうけど。

「あの女郎屋の名前を、おめがもらって行げばいいべな」

ペドロの提案にみんなが賛同し、ダンジャが遠ざかる町を指差して言う。

「おめがいればおれたちも覚えておける…大切な場所がずっと心の中に在り続けるというのは、大事なことだな」
「いい名前じゃねえか、覚えやすいしよ」
「ゴンゾ兄さんがそういうなら、決まりだわね」

ヒノデロに微笑まれて、ゴンゾは目を逸らす。
三人がそれを見て面白がったので、ゴンゾは口をへの字にして歩き出した。

「七つの鐘つかまえるんじゃねがったか?早いとこ峠さ越えねと間に合わねえぞ」

笠を深く被り直し、後に続く。
月が一番高く昇る頃、峠を吹き抜ける風に乗った。
生まれた町を空から見るのは、これが最初で最後になる。




忘れない。
おしろいの匂い、べにの紅。
過ぎていく人達と、顔も知らない母への想い。


「ペドロ兄さん、これからどこへ?」

「おうっ、湯の花村よぉ…いいとこだぞ」


夜明け前に空を翔る。
月の光と、仲間達。

どこへでも、どこまでも。


【ひよこ】
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